美容院に行った〜。
「流行りは韓国のふわっとした色だけど、ビビッドなほうが似合う!」って色の残留を気にしないスタイリストさん(おばさん)のお陰で、元の抜けを生かしつつ赤〜青のグラデになった。
おばさんは思い切りがいい!私もおばさん!
いつか書こう書こうと思ってた小さな話。
先日、親戚といろいろ話す機会を経てもうちょっと小ネタが増えたので、そろそろ書き出しておく。
昔、静岡市を作った母の家の話
別に誰に伝えたいわけでもなく、書き留めておくことでもない気もする、いずれは歴史に埋もれてしまうだろう小さな田舎の事柄なんだけど、その気になったので書いておく。
静岡に限らず、田舎のいいお家なんかじゃ似たようなことがあっただろうと思う。もしかしたら現在進行系であるかもしれない。そんなニホンの地方の末端の小さな記録。特に面白くもオチもない読み物です。
母は俗に言う”いいお家柄”の出で、その家系は現在の
静岡市街のちょっと北の方の地主だった。
元を辿ればご先祖様は兵庫にいて、そこから
日本海側を新潟の方へ北上し、その後南下して山梨に辿り着いてからは武田の家臣だったと聞いたけど、WEBで調べる限りは武田の家臣に母の姓は見当たらないので真偽はわからない。(ちゃんとした文献とかには残っているのかもしれないけど。)
ここまでの話は家系について調べた祖父の弟(故人、
静岡新聞の記者だった)から聞いたことで、「武田が敗れた後、先祖は静岡に南下して今の場所に居ついた」と言っていたけど、武田氏は1575年の
長篠の戦いで
織田氏に敗れる前にすでに
駿河国(静岡)を領土にしていた(
Wikipediaより:最盛期には
甲斐国・
信濃国・
駿河国および
上野国・
遠江国・
三河国・
美濃国・
飛騨国・
越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した。)から、敗れる前には家臣である先祖は静岡の今の場所に居ついてたんじゃないかと推測する。
長篠の戦いの後にせよその前にせよ、静岡の今の土地に居ついたご先祖様は、少なくとも江戸時代から昭和21年(1946年)の農地開放まで地主だったろうから、歴史あるお家であるといえばそう言えると思う。
分家と呼ばれた祖父の家の隣には本家があり、本家の入口を入った右には番台があって、戦後生まれの母は「地代を収めにくる人を覚えている」と言うから、農地解放後も依然土地持ちだったんでしょう。
前置きは長くなったけど、本家のおじさん(私の祖父(三男)のお兄さん(長男)にあたる)は
静岡市議を経た後、1963年から1983年まで5期20年に渡って
静岡市長を務めた人で、功績は
日本平動物園の開園や文化会館の開館、鉄道の高架、駅周辺の整備など、つまり高度成長期に
静岡市の形を作った人と言える。(ここ10年くらいで駅前なんかは再開発されてるけど、それでも今も続く町の形はこの方が仕事した時代のもの。)
そして私の祖父は地元の郵便局長さん、他の兄弟達はそれぞれ建築業、
土建屋、前述の新聞記者などになり、その子供達も公務員になったり静岡鉄道に勤めて、地元や市の発展に貢献していた。
以上がちょっと調べれば表に出てくるかもしれない母の家の"表面"の話で、ここからは私のような末端の者が言わなきゃいずれ誰も知らないまま消えてしまいそうな、古い時代の田舎的なコトガラの話だ。
祖父の兄弟姉妹は全部で13人で、当然女性もいる。
そして、男がお嫁さんをもらうにしても、女がどこかに嫁ぐにしても、これがが静岡の古い”上流”ならではの考え方に則っていた。
静岡に限らず、古くからお城があった土地には
城下町と外側の差別化がある。日本全国調べたわけじゃないけど、浜松、名古屋にもこういう考え方があるのは確認できている。
静岡の場合、
駿府城&城下町に対して周りのエリアを、
川向こう(安倍川の西側)、
土手向こう(残念ながらどの土手かは詳しく聞いてない)、
駅南(今で言う
東海道線の南、つまり昔の
東海道の南側)と呼んで、昔の街の人間は区別していた。
今でも静岡の高齢者は普通に言ってるような言葉で、若い人は本来それが差別を意味する言葉だとは知らないかもしれない。
だから、母の家の男達は安倍川以東の市内か清水方面から嫁をもらったし、祖父の妹さん達は皆、
静岡市内か東側の
清水市(現
清水区)や興津、由比の方に嫁いでいる。
(ちなみに、祖父のお嫁さんは伊豆出身の看護婦さんだったけど、私が生まれる前に亡くなっているのでおばあちゃんを知らない。)
そして、祖父の娘であるうちの母も、その姉の嫁ぎ先も清水。
静岡にとって清水・興津・由比、特に港がある清水(古くは江尻)は”静岡の海の玄関口”なので、属州とかオラが土地くらいの感覚なんでしょうね。だから、嫁ぎ先としてOKな土地だった。
うちの母はワケあって婚期を逃した人で(本人曰く、お付き合いしていた人はいたけど母の家柄にびびって逃げてしまった、らしい)、最終的にお見合い結婚だったけど、その縁談を持ってきたのが清水に嫁いでた祖父の妹だから、なるべくしてそうなった。私が清水で生まれ育ったのは、この母の家の都合ありきの話だ。
だから母の家系の親戚は軒並み安倍川の東側にいて、西側はいない。
(城下町エリアに家持ってたけど)そもそも市街地の北、城下町ではない所の地主なのに町のモンぶるのはどういう了見だよ?って突っ込めてしまうけど、とにかくそういうものだった。
戦後もしばらく、こんな”静岡の古い上流”らしい考え方が当たり前だった母の家は、恐らく、大正、明治、江戸と遡ってもこうだったんだろうと思う。むしろ昔のほうが地域差別が激しかったでしょうね。
T子さんの出身は安倍川の西側の山あいで、母の家系の婚姻ルール(?)から逸脱している。それまでの歴史を振り返れば恐らく異例。
母の従兄弟がT子さんをお嫁にもらったのが1990年頃で、私の母が清水に嫁いだのがその約10年前。
10年の間に古いお家が多少近代化したのかなんなのか。家系がみんなゆるふわな感じだからまぁOKになったのか、その家のおじさんは祖父の弟でも結構下の若いほうだからなんとなくOKだったのか…本家筋じゃないからアリだったのかもしれない?と
穿った見方をしてしまいつつ。
私の親戚に対する苦言(っていうか愚痴)を笑いながら「あれね~」って聞いてくれるT子さんは、母の家系の近代化の象徴みたいな人だなと思えたのでした。
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時代は変わり、私の世代にもなると婚姻相手がどうのとやいのやいの言われることはありません。本家筋は知りませんが。
個人的に、母の離婚と自分の結婚で名字が既に2度も変わってるおかげで名字に特に思い入れはなく、
夫婦別姓でもなんでもいいじゃんという考えですが、由緒正しいお家にとってはまだまだ名字=家が大事なんだろうというのはまぁ理解できます。それも本家筋が守ってりゃあとは別に好きにしたらいいんじゃないの、と思いますが。
あと、書くまでもありませんが、ここまで書いた田舎の差別的な事柄を決してヨシと見做してるわけではありません。
あと、母の嫁ぎ先絡みで私が田舎(の大人)が嫌いな理由が一つあるんだけど、それはいつかまた気が向いたら書く…かもしれません。