9/28
だいぶ秋らしい日も増えてやっと生きた心地になってきました。
相変わらずみっちり仕事して、合間に文章を書いたり、ライブ行ったりして生きています。こんな感じで…あっという間に一年終わっちゃうな。
愛犬の目のこと
ここまでの経緯を簡単に説明。
下図は愛犬の右目を正面から見たところ。
■2022年3月 通院開始
一昨年の2月頃、かかりつけの病院で右目の虹彩の右上(図①)に濁りがあるのが見つかり、提携の東京動物眼科醫院を紹介してもらい、翌3月に初めての受診。
病名は特に言われてないのだけど、角膜(目の表面の膜)が虹彩に癒着している状態で、元々あった生まれつきの疾患が大きくなったのかこのところできたのかは不明、原因不明、とのことで、ヒアルロン酸の点眼で経過観察開始。
それと同時に、初期の白内障(図③)もちょろっと見つかるけど、まだ初期なので経過観察。
■それから3ヶ月後くらい
角膜の正面あたりに、白い小さい濁りができる。結晶沈着と言われる、原因は不明。
普段のヒアルロン酸点眼に加え、原因かもしれないドライアイケアのためにまぶたのマッサージも追加。
その後、2〜3ヶ月に一度通院と経過観察。①〜③はそれぞれじわーっと拡大し続ける。
■今年の春くらい
②の拡大が目立ったので、軟膏の処置を試してみる。
これがなんと効果があって、②の白いぽつりが多少縮む。
■今年の8月中
③白内障が急に進み、黒目(瞳孔の奥)が見てしっかりわかるくらい白っぽくなる。
■9月上旬、③白内障について相談
③白内障は確かに進行が認められる。同時に、①の角膜と虹彩の癒着が拡大し、引っ張られた瞳孔が楕円形に変形しているのが発覚。依然、①と③の因果関係は不明。
③白内障の手術の話が出る。
①は非常に稀なケースで、①が邪魔をして③白内障の手術を行えるエリアが限られており、通常の手術より難しい。そして、手術後も緑内障や網膜剥離などの合併症が出る可能性が①のせいでかなり高い。
病院としては一度持ち帰り、先生達みんなで相談をしてみる、とのこと。
■先々週
かかりつけの病院で主治医さんに報告。主治医の先生は「リスクが大きいなら無理に手術をする必要はない」との個人的見解。
私も、白内障をそのままにしていずれの失明、手術後に合併症を起こして結果的に失明(のリスクが高い)の2択なら、前者を選びたい。
■今日、眼科さんへ
白内障の手術については、病院さんとしてはご家族がご希望ならできる範囲でやりましょう、という意見。(そらそう言うでしょうね。)
主治医の先生としては、左目がまだ見えている、右目が見えなくても(現時点で6〜7割ぼんやりしてるだろう)犬の場合は細かい視力を必要としないから必ずしも手術が必要ではないが、ご家族の考え次第、とのこと。
私も夫も、犬に余計な負担はかけたくないという考えは同じなので、現状維持で引き続き経過観察をすることになった。
■犬の目について思うこと
シニア犬みんな目が白いイメージがあるくらい、白内障を放置されてる高齢犬は世の中いっぱいいると思う。
白内障を放置されてるのは、飼い主が必要ないと思っているか、そういうものだと思っているか、余命を考えたらあえて処置をしないとか、経済的に…とか、かかりつけ医も別に手術を勧めない、専門医が近くに(い)ない、など理由はさまざまだと思う。
たまたまうちはかかりつけの藤井動物病院が熱心なところで、提携に今かかってる目の専門病院もある。だから、白内障の手術を検討できる状況になった。
恐らく地域のペット医療の差はどうしてもあって、幸いにもこんなに恵まれた環境にいるのに、愛犬に目の処置をしてあげられないのは申し訳ないけど、できる範囲でサポートしていきたいと考えている。
幸いにも今は左目が見えているので、本人は至って元気いっぱいに過ごしています。
問題は、左目が白内障になった時で、それはその時にまた検討かなと思います。
ただ、主治医の先生が「手術を決めるタイミングが非常に難しくて、余命を考えたらしないケースも」と言っていたけど、本当にそうなんだろうなぁと思う。
いつ、何が起きても、できるだけ最善を選んで対処していきたいと考えてるし、できる限りのことをしてるつもり。
「ペットをいかに生かしてあげるか」はペットを飼っている者について回る悩みですね。
8/18
おばさんは思い切りがいい!私もおばさん!
先日、親戚といろいろ話す機会を経てもうちょっと小ネタが増えたので、そろそろ書き出しておく。
昔、静岡市を作った母の家の話
元を辿ればご先祖様は兵庫にいて、そこから日本海側を新潟の方へ北上し、その後南下して山梨に辿り着いてからは武田の家臣だったと聞いたけど、WEBで調べる限りは武田の家臣に母の姓は見当たらないので真偽はわからない。(ちゃんとした文献とかには残っているのかもしれないけど。)
長篠の戦いの後にせよその前にせよ、静岡の今の土地に居ついたご先祖様は、少なくとも江戸時代から昭和21年(1946年)の農地開放まで地主だったろうから、歴史あるお家であるといえばそう言えると思う。
分家と呼ばれた祖父の家の隣には本家があり、本家の入口を入った右には番台があって、戦後生まれの母は「地代を収めにくる人を覚えている」と言うから、農地解放後も依然土地持ちだったんでしょう。
そして私の祖父は地元の郵便局長さん、他の兄弟達はそれぞれ建築業、土建屋、前述の新聞記者などになり、その子供達も公務員になったり静岡鉄道に勤めて、地元や市の発展に貢献していた。
そして、男がお嫁さんをもらうにしても、女がどこかに嫁ぐにしても、これがが静岡の古い”上流”ならではの考え方に則っていた。
静岡の場合、駿府城&城下町に対して周りのエリアを、川向こう(安倍川の西側)、土手向こう(残念ながらどの土手かは詳しく聞いてない)、駅南(今で言う東海道線の南、つまり昔の東海道の南側)と呼んで、昔の街の人間は区別していた。
今でも静岡の高齢者は普通に言ってるような言葉で、若い人は本来それが差別を意味する言葉だとは知らないかもしれない。
(ちなみに、祖父のお嫁さんは伊豆出身の看護婦さんだったけど、私が生まれる前に亡くなっているのでおばあちゃんを知らない。)
そして、祖父の娘であるうちの母も、その姉の嫁ぎ先も清水。
静岡にとって清水・興津・由比、特に港がある清水(古くは江尻)は”静岡の海の玄関口”なので、属州とかオラが土地くらいの感覚なんでしょうね。だから、嫁ぎ先としてOKな土地だった。
(城下町エリアに家持ってたけど)そもそも市街地の北、城下町ではない所の地主なのに町のモンぶるのはどういう了見だよ?って突っ込めてしまうけど、とにかくそういうものだった。
戦後もしばらく、こんな”静岡の古い上流”らしい考え方が当たり前だった母の家は、恐らく、大正、明治、江戸と遡ってもこうだったんだろうと思う。むしろ昔のほうが地域差別が激しかったでしょうね。
母の従兄弟がT子さんをお嫁にもらったのが1990年頃で、私の母が清水に嫁いだのがその約10年前。
10年の間に古いお家が多少近代化したのかなんなのか。家系がみんなゆるふわな感じだからまぁOKになったのか、その家のおじさんは祖父の弟でも結構下の若いほうだからなんとなくOKだったのか…本家筋じゃないからアリだったのかもしれない?と穿った見方をしてしまいつつ。
8/17
犬のこと
相変わらず突然の謎の目の怪我(7月末)、耳の炎症(今週)と毎月何かしら病院のお世話にはなってるけど、本人は元気いっぱい。
去勢をすると性格が変わるとか大人しくなるとか聞くけど、うちの犬の性格面は変わらない。
ただ、オスとしての機能がなくなったからか、お気に入りの顎枕へのマウンティング行動がなくなったのと、家の中で以前ほどこまめにおしっこをしなくなったので、大量のおしっこがペットシーツから溢れちゃう事故が発生しがちになった。
つまり、性格は変わらないけど、オスのホルモンが作用するらしい習性は明らかに変わることがうちの犬の去勢を通してわかった。
7月、このままこの暑さが続いたらどうしようと思ってたけど、8月になってみると夜に雨が降ったりして7月よりは過ごしやすく、お散歩機会も増えてていい傾向。
7月
パリ五輪
普段はスポーツ全然観ないのに、「五輪だから」観る層がいることを知る。よーこさんとかそう。
ブレイキンで初戦敗退しちゃったHIRO10さんが心に残った。まだ19歳、いつまでも参加してほしい。
彼らはフィジカルな事柄で私の趣味を並べるのはだいぶお門違いだけど、それでも、自分も書くことを続けてたいと思う。
何も目指してないけど。
帰省
驚くことに、一番ダメージを受けてたのは高齢者の母ではなく私だった。私は家で仕事してるから外に出ないし、うちは犬のために24時間除湿と冷房で涼しくしている。だから普段から全然汗をかかず、体の体温調節機能がちゃんと働いてないらしい事が発覚。
(母はこの暑いのにエアコンを使わず(それはそれで問題視している)、妹達は通勤なんかで汗をかいている。)
これではいざという時に本当に暑さで死にかねないので、一日一回汗をかく汗活をしようと決意。
再会
満を持して、このお墓参りついでに尋ねてみると(そのお宅は祖父の家の道を挟んだ数軒隣にある)、叔父さんの息子(母の従兄弟)夫婦がちょっと驚くくらい快く迎えてくれた。
私が小学生の頃、このご夫婦には男の子の赤ちゃんがいて、お正月には一緒に遊んだりしたし、私が小5くらいの頃だったか、ご夫婦も一緒に伊豆に旅行した事がある。
けど、私が中学に上がってからはそんな交流もなくなって、それから25年近く経った6年前の祖父の葬儀まではおじさん(母の従兄弟)に会うこともなかった。
あの頃30歳くらいだった奥さんはもう60代で、見た目はあの頃とあまり変わらず、だけど人柄は随分と印象が違った。
あの頃は物静かなお嫁さんって感じだった方は、今はすっかり新家(しんや:うちの祖父の家は分家(ぶんけ)と呼ばれてた、新家も分家だけど新家は新家と呼ばれてた)の奥さんになられてた。
奥さんはウン10年振りに会ったことをとても喜んでくれて、息子さん(もう33歳になった)があいにく不在なことを残念がって、いっぱい色んな話をして、お酒一緒に飲もうとか、BBQやろうとか、数日後の花火大会見においでよとか、泊まってったっらいいとか熱心に誘ってくれ、帰りにはお茶っ葉を持たせてくれた。(静岡感。)
こんな風に歓迎されるのは嬉しいもので、じゃあ来年改めて遊びにきますと失礼した時には2時間もお邪魔していた。
奥さんに関しては、本来そういう気さくでフレンドリーな人だったんだと知れたのもあるけど、この田舎じゃ普段息子以外の若い人と関わる機会がないんだなという印象が強かった。「女の子が3人もいると賑やかでいいねぇ」と何度か言っていた。(という私達はアラフォーでもう若くはないけど、奥さんからしたら若いんだろう。)
生まれ育った所なので知ってるしそれなりの愛着はあるけど、記憶のほとんどは苦しい閉塞感と辛いものばかりだ。
だから、東京に出るのは当たり前だと思ってたし、関東に出てからは必要がなければ帰らない。
だけど今回、母の従兄弟ご夫妻が再会を喜んでくれたのを目の当たりにして、悪いことばかりじゃないと少しだけ思えた。
そして、来年の夏、妹達と新家に遊びに行ってBBQすることを楽しみにしている。
もんだい
うちの親周辺も夫の親周辺も問題いっぱいでイヤんなる。
Podcast
少しずつでもできる範囲で続けていけたらいい。